昨年3月に早期退職してから大学に聴講生として通っている。
そのうちの授業の1つで課題になっていたレポートを本日提出した。
具体的には、文学部哲学科の哲学史の授業で、自由と悪に関するテーマで書くというもの。最低2500字以上以外は特に縛りはない。
書いているうちに、次々と書きたいことが増えてきた。最終的には1万3000字近くまで膨らんでしまった。
悪に関して言うと、哲学は、全知全能の神が創造したこの世界で、なぜ悪が生まれるのかを色々なやり方で説明している。神をいかに免責した結論に導くか(弁神論という。)古くから議論がなされ,悪は善の欠如だと言ってみたり、悪を伴うこの現実世界を神は選択したもので悪を容認していると説明したりして、神との関係で悪を論じていた。
近代になると人間の本性に悪がつきまとっているという思想が生まれ、特に有名なドイツの哲学者カントは根源悪という言葉を使って説明した。カントの悪の哲学をシェリングが更に発展させた。
現代になると、ナチスドイツによるホロコーストの実態が明らかになり、このような巨悪に関してユダヤ人の政治哲学者のハンナ・アーレントが更に考察を深めていった。
レポートではこのような、一連の流れを説明した上で、アーレントとカントやシェリングの思想を比較するなどした。その上で今後の検討課題を書いてレポートを締めくくった。
このカントとアーレントの哲学を比較調査していくと、新たな発見があった。カントは、伝統的な人権思想、すなわち人は生まれながらにして人権を持つという人権思想をもとに哲学を組み立てている。私も自分が学んだ憲法の人権思想として、それが当たり前だと思っていた。しかし、これに対して、アーレントは、特定の国家による保証を失った瞬間に人権が瓦解してしまうという歴史的現実を無視した抽象的な主張であるとの批判を突きつけている。そもそも生まれながらの人権というような人間の権利などというものが存在するのかという根本的な問いを投げかけている。ちなみに同様の問いが現在NHKで放送中の100分で名著という番組で取り上げているローティ「偶然性・アイロニー・連帯」の中にも出てくる(ローティは人権という概念は紛争の防止や解決に役に立っていないと述べている)。
今回のレポート作成を通じて、当たり前を疑うことの大切さを改めて実感した。