今年3月末で早期退職して以降、4月から哲学の勉強をしに聴講生として近所の大学に通っている。
今日の授業のテーマは「自由を問う」というもので、イギリスの功利主義を代表する哲学者であるJ・Sミルの「自由論」が取り上げられた。
ちなみにミルの功利主義は「満足した豚であるより不満足な人間であるほうがよい。満足した愚者であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。」という言葉が有名。快楽には低級なものと高級なものとの質的な差があり、質の高い快楽を求めるべきだという質的功利主義を説いた。
ミルの「自由論」は、思想の絶対的な自由と、この思想の自由が実現されるために言論と出版の自由=表現の自由が確保されなければならないという表現の自由の尊重を主張している。また、思想の自由以外の自由は、人に危害を加えない限り制限されないという「危害原則」を唱え、各自の自己決定を最大限尊重しようとしている。現在の人権論に関する憲法解釈に繋がる考えを主張している。
更に、ミルは、「自己決定のための精神的能力は筋肉のようなもので、使わなければ衰えてしまう。国家権力によって何から何まで指図されるなら、個々人の精神的発展の潜在力は衰える。」と指摘している。
このミルの指摘をみて、先日読んだドイツの哲学者カントの「啓蒙とは何か」という論稿の記載を思い出した。引用すると、カントは「啓蒙とは、人間が自ら招いた未成年の状態から抜け出ること。〜未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないことを言う。〜他人の指示を仰がないと自分の理性を使う決意も勇気も持てないから〜その原因は人間の怠慢と臆病にある〜未成年の状態にとどまっているのはなんとも楽なことだから〜人間が自分の足で歩くのを妨げる足枷なのだ。誰かがこの足枷を投げ捨てたとしてみよう。その人は、自由に動くことに慣れていないので、ごく小さな溝を飛び越すにも、足がふらついてしまうだろう。だから自分の精神をみずから鍛えて、未成年状態から抜け出すことに成功し、しっかりと歩むことのできた人は、ごくわずかなのである。」などと述べている。
近代以降、人間に自由が与えられ、理想的な個人が生み出されたはずが、むしろひ弱で自由の行使を萎縮させる人々を生み出しているのが現実なのかも知れない。