人間にとって働くこと、あるいは仕事とはなにか。これは1つの哲学的な問いになる。
「働かざるもの食うべかざる」という言葉がある。また、少なくとも日本においては、「働く必要がない資産があるのだから、働く必要はない」とは正面から言いづらい空気がある。このように常識的には働くこと自体に価値を見出そうとする人が多いように感じる。
仕事について分析してみると、自分のやりたい面白い仕事と、退屈で生活を維持するために仕方なくやる仕事(これを「労働」という。)がある。人が仕事で悩むのは、実際の仕事は、これらが混在しており、両立させる必要があるものの、退屈な労働が多くを占めているからだろう。自分のことを振り返ると、退職直前は明らかに労働部分が多くを占めるようになっていた。
そうすると、仕事が退屈な労働が多くを占めるような状況で、仕事に多くの価値を見い出すことはできないと考える方がむしろ素直に思える。20代、30代は新たに知識を吸収し、経験を積むことが未知の体験であり、楽しくても、40代、50代になるにつれて、会社の全体像や将来が見えてくる。同じようなモチベーションを維持することは難しい。経済的状況がそれを許すなら、無理にそのような仕事(労働)を続けることはないと考える方が素直に思える。
次に働く必要がなくなったら、人間はどうなるのだろうか。これも哲学的な問いになり得る。私のような早期退職した(あるいはできた)人間は、まさにその問いに直面して今を生きている。あるいは、遠くない未来にAIとロボットが人間の苦役である労働を引き受けることになるかもしれない。未来は、働く人がほとんどいなくなった社会になる可能性がある。
この問いは、自由な個人はどう生きるべきか、すなわち自由とは何かという問いと関連している。
自由に生きるということは、「人間は自由になるほど孤独に苛まれる(エーリックフロム)」、「人間は自由の刑に処せられている(サルトル)」などの哲学者らの言葉が示しているように、全てを自分で決めていかなければならないという覚悟を求められることでもある。
これには、大きく分けて2つの方向に分裂していく仮説が考えられる。1つは、古代ギリシャの市民のように与えられた自由を楽しみ自由人化すること。もう1つは、考えることを放棄して、最低限の欲求を充足することで満足し、動物化していくこと。
どのようにして自由を楽しめるのかを常に考えていくことで、自由人化する方向に進んで行けたらと思っている。