50代早期退職者tudanumax の日記

50代で早期退職しようと考えた理由、心境など

カント哲学への関心が高まった

 

 

私は、3月末で早期退職した後、哲学探求にハマり、4月からA大学で、10月からは、これに追加してB大学でも哲学の授業を聴講生として受講している。

 

今日は、A大学の授業日で、テーマは「知と言語を問う 人はどこまで知ることができるか」という内容。ドイツの著名な哲学者であるカント(17241804)の哲学思想を中心に授業が進められた。

 

今回は内容が2日前のB大学での授業と重なっており、授業についていくのが比較的楽だった。ただし、何の予習もせずに授業を受けると理解は相当困難だったと思う。

 

カントの哲学では、我々の理性には限界があり、中でも神の存在や魂の不死など五感の作用を超越した内容には及ばないとしたことが画期的であると評価されている。すなわち、人間の理性には、現象を越えた事柄を問おうとする欲求があるが、学問として成り立つには、感性と悟性(多様な情報を概念に当てはめて物事を認識する働き 例えば茶色の長方体という情報を木の概念に当てはめて、それが木であると認識するイメージ)で経験される現象の世界のみであるとした。このカントの認識論は何度聞いても、あるいは文献を読んでも理解が難しい。

 

A大学では授業終了後に感想文を提出することになっている。

今回の授業の感想文は以下のとおり。

 

「ヒュームは、因果関係について単なる習慣に過ぎない旨主張し、因果関係を前提とする科学の客観性に疑問を提示した。これに対し、カントはその認識論で、感性と悟性が連動して物事を認識すること、我々にア・プリオリに備わっている純粋悟性概念(これには因果律も含まれている)という共通のメガネを通じて物事を判断していることを指摘して、科学の客観性を証明し、ヒュームの批判に対する答えを出している。またこれまでの形而上学への問いを整理して、理性で答えが出せる範囲と答えが出ない範囲を見事に整理している点で一種の感動を覚えました。」

「ただし、カントの認識論という仮説自体を、どうやってカントが認識できたのか?、平たくいうと仮説自体をどうやって考えたのかをその仮説に基づいて説明しろと言われると、よくわからない。認識の仕組みは、感性による五感で直感できることではないので、我々にア・プリオリに備わっている純粋悟性概念にそのような認識の仕組みも備わっているという説明になるのだろうか?」

 

後半部分は、B大学の授業で問題提起された点を感想に盛り込んだ。

 

カントの哲学は、奥が深くておもしろいと感じるようになってきた。

 

 

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