50代早期退職者tudanumax の日記

50代で早期退職しようと考えた理由、心境など

ソクラテスと利休の違い

 

 

 

なぜ日本人であるのに(アジア人であるのに)西洋哲学を学ぶのか

 

この問いは、ある大学の大学院入試の過去問で問われた問題ということで知った。私は、その問いを見るまで一般教養の哲学の授業で「西洋哲学」を取り上げていることに何の疑問も持たなかった。西洋哲学の方が学問として進んでいるからかもしれないが、それではなぜ日本の哲学が遅れをとっているのかが分からない。

 

そんな疑問を持っていたところ、図書館で立ち読みした本に「ソクラテスと利休」を対比した面白い記載があった。ソクラテスアテナイの法廷で死刑判決を受けるが、その法廷で言葉を尽くして自己の正しさを弁明した。しかも死刑判決を受けた後も処刑される直前まで友人らと魂が不滅であるかについてカンカンガクガクの議論を続けた。これとは対照的に秀吉から死を賜った利休は、一切の弁解もせずに腹を切った。何の弁明もしないことに茶の湯の精神を表現したのかもしれない。

 

このソクラテスと利休の違いは何を示しているのか。

 

日本人の美意識、行為規範の中に、とことん言葉で言い合いをして勝負をすることや自己表現を避ける面があることは否定できない。ところが哲学においては、言葉や議論がその生命線になる。ソクラテスはまさに自己の生命をかけて弁明を行った。このような西洋哲学の伝統である議論や弁論が日本では十分に根付いていないのではないか。言い換えると日本では言葉による自己表現や言葉に対する信頼を十分持つことができないのではないか。そうだとすると、世界における日本哲学の地位が西洋哲学よりも遅れているとしても不思議でないという分析には説得力があった。

 

自分自身も典型的な日本人で、内気で自己表現が苦手で議論が得意と思ったことは一度もない。しかし、哲学をするというのであれば、意識を変えていかなければならないと思った。

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