50代早期退職者tudanumax の日記

50代で早期退職しようと考えた理由、心境など

B大学で2回目の授業を受けた

 

 

今年の3月末で早期退職した後に哲学探究にハマり、大学で聴講生として授業を受けるようになった。

 

今日は、10月から新たに通い始めたB大学哲学科の専門科目の授業の2回目。

 

前回は1回目ということもあり、イントロダクションだったが、今日から本格的に授業が始まった。

 

4月から通っている一般教養のA大学の授業とは、雰囲気が全く違う。人数が少ないこともあり、授業開始前から張り詰めた空気感があり、真剣に教授の話に耳を傾けている。

 

内容は前期の授業の復習を兼ねたもので、カントの認識論とその位置づけ、問題の所在といったもの。A大学での授業でも出てきた内容が含まれていたので、何とか話についていく。

 

カントの認識論は難解だが、簡単にいうと、私たちは客観世界(これを「物自体」という)を直接捉えることはできないが、感性の働きにより感覚器官が受け止めた印象(漠然とした感覚の束)を、理性(悟性)の働きで整理統合して認識・判断している。例えば、ある物を見て、感性が捉えた「茶色の広がり」という内容を、理性の働きでテーブルという概念に統合し、テーブルと判断するに至るというもの。そして私たちが理性で認識できる世界(現象界という)と、理性では到達できない世界(先程の物自体の世界叡智界という)があり、神の存在証明など従来哲学で議論されていた問いは後者であると言う。

 

今回は、このカントの認識論の理解を前提に授業が進み、これに対する批判も取り上げられたが、私にとっては初耳で、なかなか考えさせられる内容だった。その1つがドイツの哲学者であるシェリングフィヒテの「カントは結果を与えたけれど、未だ前提を欠いている」との批判である。カントの認識論は、カント自身がどのようにして構想できたのかという前提を欠いているという。すなわち、カントの認識論という仮説自体を、どうやってカントが認識できたのかを、その仮説に基づいて説明していないという批判になる。

 

平たくいうと、仮説自体をどうやって思いついたのかを、その仮説に基づいて説明しろという批判で、私はその必要性に違和感を感じて授業後に質問に行ったが、認識論の仮説である以上、その認識過程の説明が必要であること、そこまで考えるところに他の社会科学とは違う哲学の意義があるという趣旨の説明を受けた。

 

私にとって、今回の授業は難解だが哲学的思考を経験することができ、楽しかった。ただ学生は大人しく誰も質問をしない。教授は、授業中でも疑問があれば挙手して質問して良いという。次回チャンスがあれば、授業中に質問してみたい。

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村