今年の4月に早期退職して半年が経過した。
私は、早期退職後に哲学の勉強を始め、4月からは、A大学の聴講生として週2コマの授業を履修した。そして、10月からは、A大学で引き続き週1コマの哲学の授業を履修するとともにB大学でも週1コマの授業を聴講生として履修することになった。
A大学の授業は一般教養の哲学の授業で、後期はデカルト以降の近代から現代の哲学を学ぶ予定。B大学では、専門科目の哲学講義を履修し、ドイツの哲学者ヘーゲルを学ぶ予定になっている。
今日は、A大学の哲学の授業を受講した。受講者は前期が200人を超えていたが、後期は120人ほどに減った。前期試験では、結構多くの単位不合格が出ていたことも影響しているのかも知れない。逆にいうと真面目に授業を受けようとする学生だけが残ったとも言える。
今日の授業は近代哲学の代表的な哲学者であるデカルトが取り上げられた。デカルト(1596〜1650)は、フランスで生まれた哲学者で、近代合理論の創始者と言われる。「我思う、ゆえに我あり」という言葉が有名。この哲学者の思想が現れた背景、思想内容、批判など盛りだくさんの内容で、あっという間に100分の授業が経過していた。
私のデカルトに対する理解が、今回の授業を踏まえて少し深まったような気がした。また、前期の講義で学んだ、古代ギリシア哲学(ソクラテス、プラトン、アリストテレスなど)、中世哲学(アウグスティヌス、トマス・アクイナスなど)の知識が授業の理解に役立った。
なお、授業終了後には次のような感想を提出した。
「中世のスコラ学などは神を原理として世界を説明していたが、自然科学が発達するとともに、教会の絶対的権威が疫病の流行などで揺らぐ中で、デカルトが人間の理性を重視して、方法的懐疑(確実な真理を見つけるための方法として、あらゆるものを疑うという真理探求の方法)による知の原理をつかもうとしたという背景がよく理解できました。
デカルトが徹底した方法的懐疑により、「私は考える、故に私はある」という考えに至った論理の流れが理解できました。
デカルトは、これまでの神中心の世界観から、個々の人間を主体に考えるという思想に転回したのだと思いました。ただ、神学を否定しながら、物体の存在根拠については神をその根拠にしている点は違和感を覚えました。また、精神と物体は別次元と考える( 物体と精神は、それぞれ独立的に存在するという心身2元論)と、心の動きが身体にも現れるという人の心身の仕組みを説明するのが難しいように思いました。」